事実と言葉狩り
私は体重が重い。故にデブという自覚がある。
ところが、その事実を社会で発言すると言葉狩りにあう。
デブのことを「お太りになられている」
「ふっくらしている」「ふくよか」
いくら言い換えてもその本質は「デブ」を指し示している。
どのような文脈で語られるか。
発言者の意図に悪意があるかないか。
本来はここが重要で、いくら言い換えをしていても、差別根性がある人間はいくらでもいる。
文章の読解能力がない連中だからこそ。差別意識がある人間だからこそ「デブ」を差別用語として登録し、発言者を差別者とあげつらう。
アメリカで幅を利かせるポリティカル・コレクトネス - Wikipedia、基本は政治の世界と報道の世界で、自分が聖人君子というアピールの道具のはず。
なのだが、日本に入ってきた結果、下々の民衆までお互いを監視する状態に。
黒い人は黒い人。耳が聞こえない人は耳が聞こえない人。
事実を差別といいかえる愚かさ。
傷つけるんじゃないか、という配慮の方が時として、相手を攻撃していることに気づけないバカさ加減にうんざりする。
言葉を選び、見えないように隅っこに追いやる姿勢こそが差別だろうが。
言葉狩りなんて、しょせんお役所とマスコミの自主ガイドラインに過ぎない。役所の書類が、西暦がだめで年号を使わないといけないのと同じように、実はたいした意味はないと思う。
※「デブ」をいくつもの差別用語と言われているものに置き換えて考えてみよう。