「慈愛サル」か、それとも「自愛サル」か? 言葉遊びで見えてくる現実の縮図
ある日、サル山のボスが「ドングリの呼び名を変えます!」と宣言した。「これからは『皆の命を繋ぐ尊い実』と呼ぶことにする」と。そして、年寄りサルと赤子のサルにはより多くの実を分け与え、一方で働くサルには「もっと納めろ」と命じた。最初は15粒だった納入が、50粒、60粒へと増やされていく。
それでもボスは「これは尊い実だから、みんなで分かち合うのが当然」と慈愛のポーズを取るが、よく見るとボスの毛並みはツヤツヤになっていた。ドングリを拾いに行かないはずなのに、なぜか一番栄養状態がいい——。
この寓話、フィクションのはずなのに、読んでいるうちに「……あれ?」と現実がよぎる人もいるのでは?
「幸齢者」「こどもどまんなか」といったポジティブワードの大盤振る舞いと、それに伴う負担増。「言葉を変えることで本質をごまかし、負担だけが増える」構造が、見事にサル山に落とし込まれている。
本来のリーダーとは、「どうやったらドングリがもっと増えるか」を考える存在のはず。でも、もしやっていることが**「労働サルにもっと取ってこさせて、分配するポーズを取るだけ」**なら、それはもはや「慈愛サル」ではなく、「自愛サル」では?
この話は、あくまでフィクション。でも、「フィクションは現実より雄弁」という言葉があるように、このサル山の物語から、あなたは何を感じるだろうか?
…あっ、もちろんこれは現実とは関係ない話ですよ?(ニッコリ)
https://unsuitable.hatenablog.com/entry/2025/02/21/180000