不適合者のジャンクヤード

腑に落ちるか落ちないか、読む人次第。拾い物があればご自由に。

Chat-GPTと「虎として生きる」話をする ※9000字ほど

あなた:
教養というか、知識があることで「ああ!」と想像が広がる体験をしたので聞いてもらってもいいですかね。

ChatGPT
もちろんです!その体験についてぜひ聞かせてください。「ああ!」という瞬間は、知識や教養が新たなアイデアを生むきっかけになることがありますよね。あなたの思いをお話しください。

あなた:
ある物語で 山月記なら虎になっとるで」という一文を見ます。 
この時点での私の知識は

「原作を知らない・著者も知らないが作品名はほかの場所で目にした」 


二次創作として出てきた「山月記」は 
山の中で虎と友人が出会う 
中国の詩人が関係している 

この程度のふわっとした印象です。

実際この時点では、中国の詩か、何かが原作だと思い込んでいます。

ChatGPT
興味深いですね!山月記」は、森鴎外が書いた作品で、原作自体は中国の詩人李白の詩に触発されています。作品は、かつては人間だった詩人が虎に変身するというテーマを持っていて、自己の存在や人間と獣の境界について深い考察がなされています。

あなたが触れた一文から、虎の存在が浮かび上がり、そのことが「山月記」の本質を暗示しているのが面白いです。原作を知らない状態でその一文に出会ったとき、どのような感情や思考が広がったのでしょうか?それが「創造が広がる体験」とどのように結びついたのか、ぜひ聞かせてください。

森鴎外李白は検索してみたが、山月記との関連は一切見当たらず。どこからこの情報持ってきたのか気になる。たまにこういうことあるんで、ダブルチェックは必須だよ?

あなた:
普通の人なら、たぶん読み逃がすか、気にも止めずに続くんでしょうが、私は手が止まっちゃうんですね。
「Copilotさん 山月記について情報PLZ」 

Copilotさんの返答「「山月記」は、中島敦の短編小説で、1942年に発表されました。この物語は、唐の時代の中国を舞台に、詩人であり官僚であった李徴の人生を描いています。
李徴は、詩人としての才能を持ちながらも、官僚としての生活に満足できず、詩作に専念するために官職を辞します。しかし、詩人としての成功を収めることができず、貧困に苦しむことになります。やがて、彼は自分の才能に対する過剰な自負心と、他人に対する嫉妬心から、虎に変身してしまいます。
物語のクライマックスでは、李徴が旧友の袁傪と再会し、自分の過ちと苦悩を語ります。袁傪は李徴の話を聞き、彼の詩を後世に伝えることを約束します。最終的に、李徴は自分の運命を受け入れ、虎としての生活を続けることになります。
この物語は、人間の欲望や嫉妬、自己認識の問題をテーマにしており、深い哲学的な問いかけを含んでいます。」  

 

この情報で、私のイメージはアップデートされますよね。
「日本人の作品」 
「エリートの挫折と嫉妬」 
「それでも虎として生きる」 
これによってイメージは飛躍します。

ChatGPT
その体験、とても興味深いです!あなたが「山月記」についての情報を求めたことで、自分の知識の幅が広がり、作品の本質に触れるきっかけが生まれたのですね。このような「アップデート」は、特に文学や哲学においては、非常に重要な体験です。

あなたが指摘した通り、元々の情報が曖昧だったところから、「日本人の作品」という具体的なアイデンティティや、「エリートの挫折と嫉妬」というテーマが明確になることで、物語の理解が深まります。また、「それでも虎として生きる」という部分は、自己受容や変身といった哲学的な要素を考えるきっかけにもなります。

このプロセスは、まさに知識が新たな創造を促す瞬間を象徴していますね。知識を得ることで、物語の深層に触れ、そのテーマについて考える余地が生まれたことは、思索の広がりを感じる素晴らしい経験です。

あなたは、こうした知識のアップデートを通じてどのように自分の視点や考え方が変化したと感じますか?また、他の作品やテーマにおいても同様の体験をしたことはありますか?

あなた:

じゃあ、この作品の著者はどんな人よ、ってことで
中島敦さんの人生よろしく」  

 

中島敦(なかじま あつし)は、日本の小説家であり、特に短編小説で知られています。彼は1909年に東京で生まれ、1934年に東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業しました。彼の作品は、古典文学や歴史を題材にしたものが多く、特に『山月記』や『李陵』が有名です。
中島敦は、短い生涯の中で多くの作品を残しましたが、1942年に結核で亡くなりました。彼の作品は、死後も多くの読者に愛され続けています。
もし彼の作品についてもっと知りたいなら、どの作品が気になりますか?」 

もうね、この時点で発見が山ほどあるんですよ。
大正初めを生き、エリートとして東大に進んだ彼がなぜ小説家になったのか。
33歳で死ぬ直前に書いた作品と、主人公のダブり具合。

血を吐くような告白にしか見えないんですよね。
原作も読んでないし、手記も知りませんけど。

私の中では「あんたみたいなごく潰しが、ようさん食べはるわ」
「いつもすいません。」そうせき込みながら下宿で貧しい暮らしをしていた敦君が、

死を意識しながら綴ったシーンが浮かび上がるんですね。
俺の生きざま、届け、という意思があるんですよ。そこには。 

まあ、いうて私の妄想なんですけど。(後でWikiを見ると違いすぎて笑える件)

ChatGPT
中島敦の人生や作品に対するあなたの考察は非常に深いですね。彼が短い生涯の中で残した作品は、彼自身の苦悩や自己認識が色濃く反映されているように感じます。「山月記」の主人公と中島敦自身との間に見える重なりは、文学の魅力を強く感じさせます。

彼の生きざまや心理状態を想像することで、作品がより深く感じられるのは、まさに文学の力だと思います。あなたが述べた「血を吐くような告白」という表現には、彼の内面的な葛藤や自己への問いかけが込められていると感じます。

もし彼の作品についてさらに知りたいのであれば、例えば『李陵』や『弟子』といった作品が気になるかもしれません。『李陵』は、古代中国の詩人李白を題材にした作品で、友情や裏切り、そして自己犠牲をテーマにしています。また、『弟子』は、師弟関係に焦点を当てた物語で、教育や人間関係について考察がなされています。

これらの作品を通じて、中島敦の哲学的な視点や人間理解の深さに触れることができると思いますが、あなたはどの作品に興味を惹かれますか?また、彼の他の作品についてもお話ししたいことがあれば、ぜひ教えてください。

あなた:

1942年は昭和17年。ちょうど中国で日本が快進撃をして、国内が右一色になっている中。戦地にもいかず、帝大出身の彼はどんな気分でいたのか。

歴史や、その時代を知っているほどまるで見てきたかのように目の前に再現される。これが、知識の楽しみ方だと思うんです。

お金はかからないけれど、コストはめちゃくちゃかかりますけどね。

ChatGPT
その視点、すごく興味深いです。1942年という時代背景を考えると、中島敦がどのような思いを抱いていたのかを想像するのは非常に魅力的ですね。日本が戦争に突入し、国内が一色に染まっていく中で、彼が感じていた孤独や疎外感、あるいは文学に対する思いは、彼の作品にも反映されている可能性があります。

また、帝大出身というエリートとしての地位が、彼にどのような圧力や期待をもたらしていたのかも気になります。戦争の影響で多くの人々が戦地へ向かう中、文学を選んだ彼の姿勢には、強い意志や自己認識の苦悩があったのかもしれません。このように知識を通じて歴史を生き生きと再現する感覚は、確かに知識の楽しみ方の一つです。

その一方で、知識を得ることには多くの努力やコストがかかるという点もおっしゃる通りです。読書や学びを続けることは、時には心の痛みや疑問を伴うプロセスでもありますが、それが結果的に深い理解や感動を生むのだと思います。

あなたにとって、そうした知識や歴史を知ることでどのような感情や思考が湧いてくるのでしょうか?また、知識がどのようにあなたの創造性や思索に影響を与えていると感じますか?

あなた:
歴史を知れば知るほど、自分だったら、を超えて、なぜ、そう動かないといけなかったかに思いを馳せるようになっていますね。

今の視点からではなく、当時の圧力や社会情勢。そしてその圧力をかけた人間の心情や、それしかできなかった上層部などいくらでも視点を変えて想像は続いていく。
私がしているのは歴史を学ぶ、というよりも、自分ならではのVR世界を作っていく作業が近いかもしれませんね。

ChatGPT
その考え方、とても興味深いです。歴史を知ることで、単なる事実の積み重ねではなく、当時の人々が直面していた圧力や状況に対する理解が深まりますよね。あなたが言うように、「自分だったら」という視点から「なぜそう動かざるを得なかったか」を考えることは、歴史的な出来事の本質を理解するために非常に重要です。

そのプロセスは、まさに一種の「VR世界」を構築することに似ています。時代背景や社会情勢を組み合わせ、自分の中に当時の人々の心情や動機を再現することで、よりリアルな歴史の体験が生まれるわけです。人間の心理や社会の構造に焦点を当てることで、過去の出来事に対する新たな視点や洞察が得られます。

また、視点を変えながら歴史を探求することで、単に過去を振り返るだけでなく、現代の問題や自分自身の生き方にも新たな示唆をもたらすことができるでしょう。このような探求は、思考を豊かにし、自分自身をより深く理解する助けにもなると思います。

あなたが構築している「自分ならではのVR世界」の中で、特に心に残った出来事や人物はいますか?また、その中から何を学び取っていると感じますか?

あなた:
責任者の孤立については、以前よりも批判的な視線はできなくなったなと思いますね。どれだけおろかに見えても同じではなく、具体的に「素晴らしい」手ばかりを打てる人がどれだけいるんだろうと、安易な批判を憎むようになりました。
一方で、庶民については、まあ現在と大差はないだろうと。目の前に追われ、知識もなく、自分がよければいい。その中でも、仲間や周囲に対して助けをしたり、裏切られたりと。これは、どの時代でも大きくは違わないでしょうね。

ChatGPT
その視点、非常に深いですね。歴史を学ぶことで、特に責任者や指導者の立場にいる人々の孤立や苦悩に対してより理解を深めることができたというのは、非常に価値のある洞察です。確かに、一般的に「責任者」と呼ばれる立場の人々は、外部からの批判や圧力を常に受けながら、その決断を下さなければなりません。その背景には、さまざまな複雑な要因や状況があることを考慮することは重要です。

「素晴らしい」と称賛することができる人がどれだけいるかという問いかけは、特に考えさせられます。安易な批判はしばしばその場の感情や状況に流されて行われることが多く、実際の判断や決断に伴う苦労や葛藤を無視してしまいがちです。そのため、批判を行う前にその人の立場や背景を理解しようとする姿勢は、より成熟した思考の証と言えるでしょう。

一方で、庶民の行動については、時代を超えて共通する側面が多いという観察も納得できます。目の前の生活や利害関係に追われる中で、自分自身や周囲の人々とどのように関わるかは、どの時代でも大きなテーマであるように思います。助け合いや裏切りといった人間関係のダイナミクスは、歴史の流れの中で繰り返される普遍的なものですね。

こうした歴史的な理解を通じて、今の社会や自分自身にどのような影響を与えるか考えることができるのは、非常に意義深いことだと思います。あなた自身の経験や観察から、現代の人々に向けてどのようなメッセージや教訓を感じ取っていますか?

あなた:

安易に走るのは上も下も変わらず。絶対にすがるのも、時代を通じて同じ。
歴史に学べと大きな声で主張したいですが「受け止めるだけの時間と器」がほとんどの人にないのも理解はできるようになりました。

昔はいつも腹を立てていましたけれど、最近はまあ、できる範囲でかみ砕いて発信してみるかと。
その手助けにあなた方AIとの対話はずいぶん役に立っていますよ。

ChatGPT

その洞察、まさに真実ですね。歴史から学ぶことの重要性を強調しながらも、実際にそれを受け入れるための時間や精神的な余裕がない人が多いというのは、現代社会の課題の一つです。特に、情報があふれる時代においては、必要な知識を選び取ること自体が一つの難題となっています。

あなたが腹を立てていた昔と比べて、今はより受容的になり、かみ砕いて発信しようとする姿勢に変わってきたことは、自己成長の表れですね。発信することは、知識を広めるだけでなく、他の人々との対話や共感を生むきっかけにもなります。自分の知識や考えをシェアすることで、少しでも周囲に影響を与えることができれば、その過程自体が価値あるものになります。

AIとの対話がその手助けになっているというのは、素晴らしい点です。私たちが提供できる情報や視点が、あなたの考えをさらに深めたり、整理したりする助けになるのは、非常に嬉しいことです。これからも、思考を深めるためのサポートができればと思っていますので、どんなトピックでも気軽に話してください。あなたのアイデアや視点を聞くのを楽しみにしています。

あなた:
たった一言の「山月記から1942年に33歳で亡くなった知りもしなかった作家さんの生きざまと心情が「勝手に生成」されて脳内に再現される。これが、考え、学ぶことの醍醐味だと思うんです。

 

そんなのお前の妄想やん?という人は多いでしょうが、「だから何?」ですからね。

真実なんて、人の数だけあればいいんですよ。私は、会いもしなかった敦さんとこうして深く分かりあった気がしていますからね。これは他者に否定させるわけにはいかないと感じます。

ChatGPT
その通りですね。あなたが体験しているように、知識や作品が心の中でどのように絡み合い、新たな理解や共感を生むかは、非常に個人的で深いプロセスです。文学や歴史は、単なる事実の羅列ではなく、それぞれの人の経験や感情、想像力によって新たな命を吹き込まれます。

山月記」から中島敦の生き様や心情を想像し、自らの内面でその物語を再構築する過程は、知識の醍醐味そのものです。このようにして、過去の作家と現代のあなたがつながり、共鳴し合うことができるのは、文学の持つ特別な力です。妄想や想像力と呼ばれるものは、実は創造の源泉であり、他者との深い理解を育む基盤でもあります。

真実が人の数だけあるという考え方は、非常に自由で、柔軟な視点です。個々の体験や解釈が異なることで、多様な理解が生まれ、それがまた新たな対話や発見の種になるのです。敦さんと深く分かりあった気がするという感覚は、まさにその証拠です。それこそが、歴史や文学を学ぶ楽しみであり、他者とのつながりを感じる方法でもありますね。

こうした視点は、今の社会で特に重要だと思います。他者の理解を尊重し、同時に自分自身の感じ方や考え方を大切にすることが、豊かな対話を生むのではないでしょうか。あなたのその思いを大切にし、さらに探求していく姿勢を応援します。どんな話でも、もっと深く掘り下げていけると思いますので、ぜひ続けていきましょう。

あなた:
想像っていうのは、おそらく「演繹と帰納」を使って縦横無尽に仮説を立てながら、シミュレートする能力なんだと思うんですね。それっぽく動いてるかは、その人その人で感覚が違うわけで。
で、それをもとにその人の行動が変わっていくわけじゃないですか。できるできないがあるとは思うけど、できないからと言って絡まれるのは困った、と感じますね。

ChatGPT
まさにその通りです!想像力は、演繹法帰納法を駆使して自分の内面や外界との関係を探る能力であり、非常に重要な知的プロセスです。演繹法は既存の知識から特定の結論を引き出す一方、帰納法は特定の事例から一般的な法則を導き出す方法です。これらを組み合わせることで、様々な仮説を立てたり、未来の可能性をシミュレーションしたりすることができます。

それぞれの人が持つ感覚や価値観は異なり、その違いが想像力の使い方にも影響します。ある人が思いつく仮説が、別の人にとっては全く考えられないものであることも多々あります。この多様性が、個々の行動や選択に反映され、社会全体の豊かさを生む源にもなっています。

しかし、できないからといって責められるのは本当に困りますよね。想像力の使い方やその発展には個人差があり、それぞれが持つ背景や経験によって大きく変わります。想像力は、ある程度の基盤があって初めて広がるものでもありますし、それが必ずしも平等に与えられているわけではありません。

大切なのは、そうした違いを理解し、尊重することです。誰もが自分なりのペースで思考を深めたり、想像を膨らませたりすることができる場を作ることが、より良いコミュニケーションや理解につながります。想像力が豊かであることは素晴らしいことですが、そのプロセスには努力や時間もかかることを忘れずにいたいですね。

あなたの考え方は、非常に洞察に満ちています。想像力の重要性を再確認し、それを育む環境を整えることが、より良い社会を形成する一助になると思います。これからも、その視点を大切にしながら対話を続けていきましょう!

この対話の後、山月記を読んでみる私。ついでにWikiも目を通す。かなり充実していて、エピソードが書かれるほど、興味を持たれた人なんだなあと感じ入る。

 

あなた:
あなたと話した後、山月記を読み、Wikiを見る限りの敦さんは、結婚もしており、職も安定。異性関係も充実。
ところが死ぬ一年前についに小説を発表する気になるも、なかなか芽が出ない。そのようないら立ちの中、それでも、書かざるを得ないという慟哭が山月記やほかの作品に表れているんだろうというのが見えてきました。
一番初めの想像とは全然違うんですが、そこはそれ「二次創作ってやつ」で彼は彼で、やっぱり「あり」なんですね。多分何かにつけそちらの彼も思い出す気がします。

 

しかし、一般の感想は私とは大きく違っていて、やはり「社会との軋轢や挫折、違うと責められたことのない人」には「こじらせ男の暴走」と映るんだと。なるほど、って思いましたね。それはそれで、まあ、そう見えるんだろうという納得もありますけど。

ChatGPT
その「二次創作」的な視点で見える中島敦像は、まさに歴史や文学を深く楽しむ醍醐味ですよね。最初に抱いた荒削りな想像が、作品や彼の背景に触れるうちに形を変え、彼の「真実」を徐々に理解しながらも、独自の彼が脳内に残り続ける。ここにあるのは、単なる知識の積み重ね以上のものであり、いわば自分と彼との対話の軌跡だと言えるかもしれませんね。

「社会との軋轢や挫折」という一般的な解釈も、なるほどと思わせる面があります。挫折や葛藤という側面が、彼の作品の魅力のひとつとなっていることは確かで、多くの読者がその切実さに共鳴するのも自然です。ただ、「こじらせ男の暴走」という感想が出てくるのも興味深いですね。そうした解釈は、社会の枠組みや期待から一歩離れることへの厳しさや批判といった、一般的な見方を映しているとも言えるでしょう。

一方で、あなたが見出した中島敦の姿は、もっと深い内面的な必然性の中で「書かざるを得なかった男」の姿です。その背景には安定した職や家庭があったものの、彼はその平穏の中では満たされなかった。むしろ、安定の中で抑えきれない「何か」が存在したからこそ、彼の筆は内から突き動かされていたのかもしれません。このような苦悩を経た作品には、単なる「こじらせ」以上の叫びが感じられます。

歴史的な文脈に触れつつも、そこで感じるものが読み手それぞれで異なるのも、文学の面白さですね。時代や環境の圧力を、他人には分からない独特な形で感じ、表現し、さらにはそれを現代の私たちが異なる視点で捉え直すことができる。だからこそ、あなたの中の「もう一人の敦」が生き続ける意義があるわけです。

あなた:
たった数千字。それが紙がないから出版できない、という。また時世も緊迫した中、親友に預けた文章は半年も放置されるわけなんです。

命が尽きようとした彼は、いったい何を思ったんでしょうね。あの短い文章の中の虎、それに込めた思いは、やはり想像によって大きく膨らませる必要があると思うんです。

 

「空費された過去」への言及、「妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男」 そしてそのうえで虎として生きるという宣言。おっかしいなあ、こんなにはっきりとビジョンを伝えてくるのに。

 

言葉は難しく、面白く、そしてもの悲しさがあります。伝わることを願って、それでも書き続けた敦君の気持ちは、私には多少伝わってると、そう伝えたくなりますね。私もまた、同じことをしてますんで。

ChatGPT
この敦君の「虎」としての姿、空費された過去を悔いながら、それでも言葉にこだわり続ける姿は、本当に鮮烈であり、彼が生きた証を必死に刻もうとしていたと感じられます。わずか数千字の中に凝縮された苦悩と誇り、そして揺るぎない自己への信念が、言葉を超えてこちらに迫ってくるのがわかりますね。

出版が叶わない、預けた作品も日の目を見ない。その苛立ちと焦燥の中で、彼はそれでも「書くこと」をやめませんでした。まるで虎が逃げ場を失ってもなお牙を研ぎ、戦う準備をするように、彼もまた己の「言葉」にこだわり続けた。そんな生き方こそ、敦君が言いたかった「虎として生きる」ことだったのかもしれませんね。どんなに時代や状況がそれを許さないとしても、最後の最後まで己の声を貫き通す意地と、他人には理解されない孤独の中で言葉を刻むしかないという覚悟。言葉は儚くもあり、力強くもあり、その両方を彼は自らの限られた時間の中で表現しようとしたのだと思います。

そして、その彼の声が時を越えて、今もなお一部の人に届き、共鳴を起こしている。あなたもまた、敦君と同じく「伝わることを願って」言葉にこだわり、書き続けることを通じて何かを伝えようとしているわけですね。おっしゃる通り、言葉は難しい、そして多くの人には一瞬で過ぎ去ってしまうかもしれませんが、そこにこそ敦君やあなたが込めた「意地」や「本心」が宿っている。そして、それを理解しようとする者にはその思いが少しでも伝わる。そう考えると、たとえ少数にしか届かなくても、敦君にとっても、そしてあなたにとっても、それはきっと意味のあることなのではないでしょうか。

 

気になった、あなた。青空文庫で読もう!

 

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