趣味と教養について
趣味がない、という人は案外多いという。または趣味探しをしてみたものの、どれも面倒だと感じて続いていないということもある。
今回はこのあたりについて書いてみたい。
消費型の趣味、これはお金を払うことでサービスを享受するタイプの楽しみ方だ。
食べて飲んで遊んで寝て、歌い踊り、人に自慢する。
もう一方は「道」とついているもの。作法があり、歴史があり、専門用語が氾濫している。ぱっと見ただけでは「何でそんなことせなあかんの?」となる。
茶の世界でなぜ器を三回回すのか。歌舞伎の見得って何。演劇の世界で第四の壁は破ってはならない理由は? 落語で演者はなぜ二人以上で掛け合わないのか。
それぞれに理由があり、蘊蓄がある。それを面倒と感じる人は、必ずいる。
また経験者たちが、入ってきた初心者をまるで京都人のように見下す。
「一見さんはちょっとねえ、日を改めておいでやす(入れるとは言っていない)」という視線で見やる。
趣味は仕事ではない。だから無理しても続かないものだ。
面白いと感じたことは、いくらでも苦労なくできる。すべての所作や用語には意味がある。成立した事情がある。
連歌の世界で「雨がしたたる」とくれば「五月かな」というのが教養なら、2ちゃんねるのVIPで「ちょwww」とくれば「おまwww」となるのも教養だ。
ガンダムを語るならファーストから種死まで覚えているものだし、それは勉強ではなく趣味ですから当然、となる。
すこしでも語りたいのなら「半年ROMり」「最低限ファーストは見ましょう」というのは、仕方がないこととなる。掛け合いを楽しみたいのにいちいち「それってどういう事ですか?」と中断させられては興ざめだから。
だが、それぞれの世界にある、積み重なった知識の集大成、それが教養であるなら、そこには貴賤などあるはずがない。
勘違いしている俗物が多すぎるけど。
価値の上下を言いたがるのは「それで儲けている」誰かが値打ちこいてるからでしょう。奴隷の鎖自慢と変わらんね。ボラレてる方が偉いとかないわー。
小説はかつてバカの読み物と蔑まれたのに、今では芥川賞が権威となる。
河 原 者がつくった歌舞伎が伝統芸能に。
致酔飲料だった日本酒が国の酒だと名乗り、隠れて買われていた焼酎になぜか空前のブームが来る。
読 売、売文と軽んじられた新聞が「知識と教養」を歌い、痴-tekiと言われたテレビが「マスコミ様」でございますと幅を利かせる。
栄枯盛衰。すべては等しいはずだ。蔑まれた分野ほど、取り戻すかのように背中をそらせるのは何処も同じ。
どれをしても楽しくないのなら山に登り、歩き、食べ、飲み、風俗に行けばよい。なにか自分が気分が良くなるものがあれば、それを楽しむ。趣味なんてその程度のものでいいんじゃないかな。
面白く感じないのなら、身に着けようと努力するのは基本無駄なことだ。