ポポロの扱いから社会を考える 2
基礎教育の見直し
小学校6年、中学校3年は義務教育だ。この部分を大幅に見直してみる。
義務教育の問題は、「全員に与えなければいけないが故に、流れ作業となる」ところにある。
学校の先生は分からない生徒がいないように、下向きの教育をし、できる子を退屈させる。最下層のできない子は見えないように扱われる。でなければ授業が進まなくなるからだ。
そこでまず、同じ年代、同じクラスでうける授業を10歳までに減らす。
4年間の基礎教育部分では、教えるのは国語、算数、社会、体育、音楽、道徳とする。
体を動かし、先生の言うことを聞け、読み書きと四則計算を覚えさせ、簡単な社会把握までを基礎とする。
他の教科に関しては、基礎と考え方を紹介するにとどめ、生徒の食いつきを調べるのみとする。
11~13歳の3年間では、ほかの教科を開放し、単位制の授業にする。習熟と成績次第で飛び級が可能。さらに苦手な授業はパスさせて、得意な授業、理解可能な授業での単位を稼ぎ、卒業できるとすれば、机にうつぶせで寝ているだけの生徒は減らせるはずだ。
うっぷんがたまっている生徒はフィジカルを徹底的に鍛えるか、スポーツさせればちょっとは抜けるんじゃないだろうか。
14~15歳の二年間では、法律と社会常識、就職を意識した振り分けを行っていく。
騙される手口。損する手口。儲けようとして、気持ちよくなろうとして大人が失敗しがちな事例。座学ではなく、体験型の遊びで学べばいい。
16歳からは大人として扱われる準備をさせておく。20歳になっても30歳になっても、大人になりきれない人間が多いのは、準備を学んでいないからだと思う。
元々の基礎教育は、貧しい農民の子に学を与え、労働者、兵士として利用することが目的だった。ところが現在、そのどちらでも人は必要とされていない。
子供の数は減り、個性をうたい、自我が肥大した現在の子どもと、手ひどく扱われ、暴力と恐怖に慣れ切った明治時代の子供を同じような教育で育てること自体に無理が来ている。
単位制なら好きな授業の選択が可能で、逆に言えば理解が遅い子にも合わせて、分かるまで付き合うこともできる。
今までの「差をつけない教育」は、貧乏人も金持ちも、出来がいい子も悪い子も同じところに放り込んで、逆に差を意識させる場となっている。
集団として捉えて、偏差や標準を出すのには今のままの方が都合がいい。ただし、ずっと負け組に落とし込まれた人間のルサンチマンは理解していない。
平等とは、等しく同じものを与える、だけではない。
機会を与え、適正に準じて学ぶ機会を与えるのも平等のはずだ。
70年前のカビの生えた左な考えからの脱却を提案したい。