不謹慎厨はなぜ生まれるのか
昭和の終わり、陛下が崩御された時に自粛ムードがあった。
東日本大震災の時も。
そして今回の熊本地震でも。
何をしても「不謹慎ではないか」といってくる人間がいる。不謹慎厨だ。
さて、この「不謹慎」という気持ちはどうして生まれるのか。
心理の面から考えてみると、これは「祟り、怖れ」と近いものがあると私は考えた。例えば神道で言うところのケガレ。仏教のいうところの先祖と仏罰、地獄への恐れ。
病、死、天変地異など大きな逆らえないものを前にすると思考が止まる。これは何かの罰なのか。祟りなのか。
一旦こうした気持ちになると、目立つと「たたられる」という心理になる。
その心理に陥った人が「浮かれて騒いでいる(ように見える)人」に不謹慎だ!と噛みついているのではないだろうか。
もう一つは羨みの心。自分は苦労しているのに。自分は酷い目にあっているのに「羨ましい」 だから不謹慎。
どんなことがあっても人間は忘れる生き物だ。トラブルに陥れば首をすくめ、周りをみて逃げようとする。落ち着けばそろそろとあたりを見まわし、やがて浮かれ騒ぐ。
そんなトラブルなどあったっけ?と忘れてしまう。それがおそらく生き物として正常な行動なのだろう。
しかし、イデオロギーを強く持った人間は「左でも右でも」「shu-kyouでも」同じ。
忘れさせない。
何度でも「何周年」と銘打ち、そのたびに「忘れるな」と釘を指して回る。
なぜかって? 飯の種だからじゃね?