今日のびっくり運転
血液型には妥当性があるのかないのか、と言われれば、まあないんじゃない?と答える人は多いかもしれない。
同じようなものに「車種による運転の差」が上がるかもしれない。
・ノア
同じメーカーから出ている似たような形の車。
にもかかわらず、求める層が。値段が。使用目的が違う。
さらには色。黒なのか白なのか。銀か赤か。
求める層の違いによって運転技術だけではなく、周囲への気の配り方、年齢層、自己主張度合いなど性格の違いが出てきているように思います。
どれがどうだとはここでは言いませんが。
個人的に一番危険視するのがT社のP(白色)です。
非常に危うい運転をする人が多いように見えます。
ハイブリッドカーはぱっと見コピーにも「エコ」「低燃費」謳われているので手が出やすい。私の場合、前を走っていたら、車間をいつもより相当多めに空けますね。
さて本題。今日の車はT社の白A。同じハイブリッドなので注意していたら、前が詰まったのを気にしてか右レーンに。10秒後に左レーンに戻る。
気が短いなと思っていたらそのあと左折。歩道に後輪が大きく乗り上げるという内輪差。コンパクトカーで初めて見ました。
運転者。きっと頭もハイブリッド。
論理について 「やる夫で学ぶ議論のしかた」 含む
いろいろと自分でも書いているが、こちらのサイトの説明が十二分に面白く、また役に立つ。
久しぶりに読もうと思った「やる夫で学ぶ議論のしかた」でググったときに出てきたのでついでに読ませてもらったのだがこれが面白い。
ただ、論理というのは「他人に向けると凶器になる武器」ということを忘れずに。
基本的には仲のいい人(同じ知的レベルの友人)と会話を楽しむときに使う。
そして一番は「他人に騙されないために使う」もの
相手を論破して踏みつけるため。人を騙すために使ってはいけません。
サイト中で出てきた
「意見を言うときには、その理由を必ず述べる」
※これによって「好悪の感情」「取るに足らない理由」が排除できる
これ本当大事。
個人的に使うのは「主語を入れ変えて、その論理が成立するか考える」
※「〇〇はお前がすればいいと思う」と言いたいときに
〇〇を相手の名前から、自分に入れ替えて問題ないかを考える
人に施すなかれ、ってやつだ。
感情に振り回され、そこが動機になっている言動の多いこと。
感情はだいたいが支離滅裂で、己の利益が最優先になりがちだ。
論理は、その歯止めになってくれることがある。
議論の仕方、ということであれば
こちらの記事もおすすめ。
2006年くらいから、たまに読み返して他人事には思えない同著者の
【完】経営者育成セミナー日記: 飲茶な日々 - 史上最強の哲学日記
併せてお勧めしておきます。
失敗と責任について 2
アマゾンのレビューを見ていると、Cの付くあの国の製品に、こんなレビューを見ることが多い。
・返品された商品をそのまま梱包して、発送したような感じ。
・不良品だったので、返品したが次のものも不良品だった。
歩留まりという言葉がある。歩留まり - Wikipedia
商品を作成する際に、一定の不良品は出る。
この不良率を100%から引いた数字が歩留まりだ。
例えば品質検査した時に100のうち3が不良であれば97%となる。
Cの国の製品は、日本で作るよりも歩留まりが悪い。
工場の人員の質が関係しているのか。
原料の品質が関係しているのか。
そもそも製品の品質検査をしているのか。
輸送の際のパッケージ、運び方に問題があるのか。
どれが原因かは、それともすべて当てはまるのか私にはわからない。
ただ、この基準を緩めるほど値段の安いものが作れるのは当たり前だ。
なぜなら、それらの質の向上にはとんでもないコストがかかるからだ。
安かろう悪かろう
そういうことだ。
文句が出たら、タダで同じものを送ってやればいい。
余分に2個渡してもそれでも儲かるくらいなのだ。
一方日本を考えてみる。
不良である職員は自然と淘汰される。
原料の要求基準は世界トップクラス。
品質検査は、厳しく
輸送の際のパッケージ、インフラもばっちり。
そんな時代が数十年続いたわけだ。
しかし、給料は上がらなくなった。
故に日本人はCの国の製品を買い求めるようになった。
失敗の責任を要求しながら、給料は上げない。
一方労働者も自分たちが買い物に行けば、食事をすれば「バイトにまで」プロ意識を要求する。
外国人にとっては「上流階級のサービス」が驚くほど廉価で受けられる国となる。
もう少し、他人にイラつかず鷹揚にふるまう。そして職場では給料が上がらないのなら、それなりの労働で返すぐらいの図太さが必要だと思う。
まあ、そういっても職を失う恐怖と横並び、悪目立ちが怖い、当たりを理由にするんだろうな。
失敗と責任について 1
失敗したのなら責任をとれ、という論理があるとしよう。
失敗した人間を「本人」、損害を受けたものを「雇用主」として話を進めてみる。
考えて見る必要があるのは
1.その任務は「本人」が望んで始めたことなのか。
2.任務成功の報酬は「本人」が受け取ることができるのか。
3.失敗の損害は「本人」が無限に負うと契約がされていたのか。
4.「雇用主」が求める責任とは、いかなることを指しているのか。
日本はこのあたりがふわっとしたまま、いろんな場で話が進む。
お隣の国々も同じようなところがある。
・メンツが一番
・感情激発
・水に落ちた犬は叩け。
労働における責任とは、時間内は労働の場に拘束されること。雇用主の求めることを、能力内で努力して実行すること。このぐらいではないだろうか。
人間は必ず失敗する。飽きが来て注意がそれる。疲労からペースが落ちる。間違える。
失敗の責任とは、本来その見極めが出来ていない雇用主が負担するものだ。
なぜなら労働者から得られる仕事成果の収益は、雇用主が独占できるからだ。
労働の場では、先の問1~3はすべて「いいえ」となる。
そして問4は「罰金・暴力・解雇」そのすべてが禁じられている。
失敗した時。
誠意を見せろ。責任を果たせ。
そういいながら、その内容については「as you like.(お前が考えろ)」と迫る人間は、組織は詐欺師かヤkuzaといっていい。
自分で弱みを見せた人間は、とことんまで搾り取れることがわかっているからだ。
敵はいったい誰なのか
ネットで、頭があったかいキッズのやり取りを見ていると春を感じるこの頃です。
さて、ちょっと気づいたこと。
例えばネットである書き込みがあったとします。
どこの誰、と書くと敵を増やすので(今更だが)ふわっとした話で進めますが、この書き込みをした人(Aとでもします)は嫌いな団体(Bとします)があったとしましょう。
Aさんの主張する世界観では「Bは許せない団体(個人)であるが故に、Bを擁護する発言をするものはすべて敵だ! 勉強してください!」とあちこちに書き込むわけです。
AさんがBを嫌いな理由は、ひょっとしてこの日本でたかり行為をしているように見えるからかもしれませんし、日本に対し敵対行動をとっているからかもしれません。
ところがね、思うんですよ。
Bが主張する世界観の押し付け、Bを害する発言をするものは敵だ、と主張するその行動パターンはAさんと瓜二つなわけです。
脊髄反射的に「〇〇は敵」と認定する前に、書き込む前に。
まずは相手の立ち位置から物事を考えるというディベートの基本を学んでほしいと思います。
ま、ポポロには無理か。
遊び=仕事
タイトルにこう書くと、なんだか意識高い系の話が始まりそうですよね。
んなこたーない。
不適合者がそんなこと言うわけがない。
トム・ソーヤーの冒険、このタイトルを覚えている人はどれだけいるんだろう。
作者のマーク・トウェイン - Wikipediaは間違いなく変人で、社会不適合。
ただし知の大人であることは間違いない。
私の子供のときの国語の教科書には「トム・ソーヤーの冒険」が載せられており、非常に印象深かった。
エピソードの一つがこうだ。
壁塗りをおばさんに命じられたトム。暑い日のさなか、ペンキを塗ることが嫌でしょうがない。
友人たちは日陰から「ざまあ」という目で見ている。
一計を案じたトムは急にもったいぶって、楽しそうにペンキ塗りをするふりを始める。
冷やかしていた友人たち、トムがあまりにも楽しそうに仕事をしているのでなぜかと聞く。
トム曰く「子供がこんな大人の仕事をするチャンスなんてそうないからね。」
希少価値をちらつかせることで俄然やってみたくなり、友人はトムに変わってほしいと申し出る。
しかしトム。この申出を拒否。こんなチャンスを逃してなるもんか、とますます価値を吊り上げる。友人たちはポケットから宝物を取り出し、これをあげるからぜひ変わってくださいと下手に出る。
トムはポケットに友人から巻き上げた宝物を突っ込み、木陰でのんびりと仕事をする友人をあざ笑う。
ポイントは「希少価値を与えれば、人は喜んで金銭を支払う」という点。
これは大人でも変わらない。宝石に「歴代著名人が身に着けていた」となれば価格は上がる。A5牛一頭からとれる希少な部位、といえば食べてみたいと思う。
GDPの話をしよう。その一年で、国家が無から生み出した金銭的価値がGDPだ。
日本はこの10年ほど400~500兆円強を毎年生み出したと国の報告書にはある。
さて、この生み出された価値であるが「毎年無に戻る必要がある」
なぜか。消費するためには、スペースが必要だからだ。
家を持っていれば、二件目の家はいらない。車もそうだ。
食料だって、保存のきくものをため込んでしまうと来年は買わない。
そうすれば消費活動は停滞する。
国が作るインフラは大型で大金を使うけれど、一度作り出すと修繕するだけで何十年~100年単位で次のものを作れない。道路があちこちにひかれ、トンネルを掘りと数十年続けた結果、日本はすでに道路を満遍なく敷き詰めてしまった状態にある。
では何で消費させればいいのか。
家は、10年たったら古いもの、と認知させればいい。
車は3年たてばダサいと周知させる。
夜は遊びに行くのがおしゃれと言おう。
珍しい食べ物は一万円払っても食べてみたいと思わせればいい。
SNSを使っていいねを付けあうのが「必要」と思わせれば。
仕事から帰ってきたら休息にあてるのが普通だった50年前と今は違う。
有限な時間を労働に使い、そのあとはキャリアアップに勉強、趣味に、消費に、旅行に、インターネットに買い物にテレビにSNSに使わせる。
家族サービス、というお父さんの言葉にすべてあらわされている。
家族はせっつくが、お父さんは休みたい。
消費活動は「望んで行われる」とは限らないということだ。
スマホのゲームで課金をしガチャを回し、ゲームに5時間使わなければ強くなれないとすれば。これはもう立派な労働だ。
一方ゲームを作っている会社は収益を上げ、株主はもうかり、税金は国に入る。GDPも5兆円ほど活性化するのだろうか。
80年代からこの風潮は加速し、日本のGDPは右肩上がりだった。しかし子供が減り人口が減り始め、高齢化が進む社会は消費力が明らかに下がっていく。
これ以上消費させようにも、財布にお金はなく、夜中まで起きて活動している労働者の体力、精神力はもう限界近くまで来ているのではないかと思う。
官僚の皆さんは、もう少しこの点を。。。考えてくれるのでしょうか。
「腐る通貨」を実現させるなら
この記事を書いてから一年、マイナス金利はすっかり息をひそめ、トランプ一色に。
政府が借金作ってインフラ整備するのが正しいのなら、日本はとうに景気良くなっているだろうに。
さて、前回「腐る通貨」を考えた時には思わず声を荒げてしまったが、今日イメージがわいてきたのでメモしておきたいと思う。
全てのお金に期限を作ってしまえば、当然混乱する。それならば、いくつかのジャンルの通貨を切り替えてしまおう。
そのターゲットは「福祉」だ。
年金。生活保護。こういう場所で配られるお金の、たとえば半分を「期限一年の仮想通貨」にする。
振り込みはマイナンバーカードにチャージされて、専用の(例えばスマホでも)端末接触させると残額がわかる、とすればいい。
名前は新円ポイント(略:新P)とでもしよう。
このままでは当然だが貰う側から、またはそれを支持している政党から文句が出るよな。
そこで「配る新円ポイントは今までの円の2倍貰えることとする」
気前よく配れば文句もそう出るまい。
では、問題になるのは受け取る側、企業だ。一年後に消えてしまう通貨を受け取っても使えるかどうかわからないリスクが高すぎる。つまり期間限定のババ抜きをするようなもので、最終日に渡されたらどうなるのかと。
先物オプションのショールズ式を使えばざっくりした残存価値とか出せるが、そんな面倒なことをいちいち取引のたびにやってるわけにはいかない。
当然企業側としては受け取りに慎重になってしまう。
そこで大技。
ポイントは期限が切れた後は譲渡が不可能になる。
ただし、国、自治体への税金の納付に「円=新P」の同じレートで支払うことができるとするのだ。
こうなるとどうか。期限が切れるギリギリの投げ捨てるポイントを、節税に引き受ける企業が出てくる。個人でも、残ったポイントで納付が可能だ。
各街にいくつか「円=新P」の両替所が立ち、レートが表示される。もちろんネットでの換金も可能だ。通貨ではあるが、リアルマネーではない新Pはユーロ貨幣が存在しなかったときのユーロの位置に近くなる。
買い物に行くたびにレジ前には「本日のレート」が電光掲示され、どちらで払うも自由だ。多少ややこしくはあるが、たぶんすぐ慣れる。
経済促進を狙って何度もくだらないばら撒き方をしてきた〇〇振興券に代わって、好きな時に政府が発行することができる。
印刷にコストをかけることもなく、馬鹿が買い占めて独占することもなく、買いすぎたおバカが泣きを見ることもない。
これは、と思う政策。例えば子育て支援であれ、保障であれ、機動的に予算を組んで流してみればよい。どうせ、一年で使えなくなるポイントだ。
退蔵、死蔵されることなくすべて国に還流してくる。
もちろん、発行しすぎれば税収がポイントまみれになってしまうがな。
全てを切り替えるよりはまだ健全。変動する幅は、1P当たり0.5~0.9くらいの間を変動するのではないかと思うがどうなんだろう。
私よりも賢い人たちに、ぜひ思考実験してもらってその話を聞いてみたい。
しょうらいのゆめ
3歳とか、5歳ぐらいの子供に聞いてみる。
将来の夢はなんですか?
〇〇になりたい。
この〇〇には、男の子ならプロ野球選手、とか、サラリーマンとか。
女の子なら花屋さん、とかケーキ屋さんという言葉が入るのだろう。
少なくとも、私の子供の時はそうだった。
でも夢なんだから、実際は想像を超えた言葉が飛び出てくることもある。
あんぱんまんになりたい
きゅうりになりたい
なれるとは思わんが頑張って。
世界の人々が平等になりますように
真っ赤な革命闘士候補ですか、それとも独裁者かな?
病気で苦しむ人がいなくなるようにしたい
野口英世ばりですね。
空飛ぶ車を作ってみたい
一人で作れたら、天才発明家だね。
ゆめ、というのは本来、望みであり、希望であり、思い付きであり、触発された憧れである。
叶うか叶わないかは別として、自らの内側から生れでた淡い思いだ。
ところがその発言を大人はいとも簡単に「職業」という矮小なものに押し込め、強制しているのだということに今日気づいてしまった。
たとえば先の「空飛ぶ車」と発言した子に対してはおそらく「じゃあトヨタに行こう」「マクダネル・ダグラスは無くなったから、ボーイングがいいんじゃないか」と示唆する。
確率で言えば、ほとんどの思い付きや夢など叶いはしないだろう。
しかし、その思いを就職、労働者の道しかないと思い込ませるのはいかがなものかと。
教育という名の洗脳は子供の時から始まっていたのかと気が付き、ぞっとした次第です。