暴対法をきっかけに「社会の普通」を考える。
暴対法が成立して30年以上が経ちましたが、その裏に隠れた「社会の矛盾」を意識したことはありますか?暴力団を排除するこの法律、実際には「暴力団解散命令」を出すものではなく、不当行為の抑止や資金源の制限が主な目的。ここで浮かび上がるのは、「暴力団もまた、不適合者の一種ではないか?」という視点です。
社会の不寛容さは、暴力団を「排除すべき存在」とし、脱退者に対しても「堅気になれ」と求めますが、その受け入れ先が用意されているとは言い難い現状。例えるなら「初日で怒られ、二日目で陰口、三日目で追い出される」――これでは再適応は無理ゲーです。社会が彼らに「適応しろ」と要求する一方で、それを許さない構造が問題の根底にあるのです。
さらに暴対法の締め付けにより、暴力団の資金源は減少しましたが、アングラマネーは形を変えて生き残っています。フロント企業や半グレ、暗号資産といった新たな形態が登場し、対応の難しさが増大しています。こうした状況が、情報公開の透明性の欠如と相まって、不信感や妄想を育む温床となっているのです。
問題は、社会全体の「排除の論理」が少数派全般に適用されている点。例えば「暴力団かもしれない」という理由で入れ墨のある人を敬遠したり、古い産業や中小企業を「効率が悪いから」と淘汰したり。これらはすべて、多数派の「快適さ」を優先した結果です。しかし、少数派や異質なものを排除することで、多様性や柔軟性が失われていく危険も孕んでいます。
ここで重要なのは「何やってんの?」という問いを投げかけること。社会批判ではなく、あくまでも純粋な疑問として、私たちが目を背けがちな「当たり前」に一石を投じることが必要です。
暴対法や社会の「正義」を通じて浮き彫りになる排除の構造。これをどう考え、どう受け入れるべきか――その答えはまだ見つかりませんが、「何やってんの?」という子どものような問いが、新しい視点をもたらすきっかけになるかもしれません。
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